ミハイル・アレクサンドロヴィチ・チェーホフは、20世紀の演劇に大きな足跡を残した偉人です。彼の活動の範囲は、ロシアやヨーロッパ、アメリカと広く、最前線の新しい演劇に関わるたくさんの人物と接しました。しかし、長い間、彼の仕事は広くしられなかったのです。
1891年、彼は偉大なるロシアの劇作家アントン・チェーホフの甥として生まれました。1912年にはモスクワ芸術座でプロの仕事に関わります。その当時、同じく偉大なるスタニスラフスキーや、ネミロヴィッチ・ダンチェンコ、ワフターンゴフ、メイエルホリドらがいました。特に、スタニスラフスキーは、スタジオで実験的にシステムを導入しながら、俳優たちに指導していました。
マイケル・チェーホフは、すぐに多彩な才能を開花させ、指導もするようになりました。そして1922年には第2モスクワ芸術座で演出も行うようになります。その当時、彼は初稿である「O tekhnika aktera(演技技術について)」という原稿を書いています。チェーホフは特に、精力的な活動をしていたオーストリアの哲学者であり精神科学の権威、ルドルフ・シュタイナーとの出会いに、多大な影響を受けていました。
1928年、チェーホフは、政治的な状況が緊張下にあるため、モスクワを出ました。ベルリンに着き、演出家マックス・ラインハルト(1873-1943)と共に仕事を始めます。このことがパリでの活動にもつながり、ここで彼は自分の劇場をオープンさせ、バルト諸国で演出の仕事をしたりします。
1935年、ゴーゴリの「検察官」でツアーを回り、演劇学校を創設しようとするベアトリス・ストレイトとニューヨークで出会います。そして、イギリスのデボンの演劇学校にチェーホフは招かれ、ここで研究に乗り出す機会を得ます。しかし、その学校では戦争が勃発するまでの2年間しか携わらず、その後、彼はアメリカに渡り、リッジフィールドでまた教え始めます。
チェーホフは、「演技技術について」を1942年に書き上げ、「演技者へ(「To the Actor」)」というタイトルで出版します。その後はハリウッドに進出し、多くの映画にも出ました。例をあげると、アルフレッド・ヒッチコックの「白い恐怖(Spellbound)」などです。彼はまた、多くのハリウッド俳優を指導しました。イングリッド・バーグマンやマリリン・モンロー、グレゴリー・ペック、アンソニー・クィンなどがそうです。
チェーホフは「演技技術について」の出版バージョンに充分な納得がいっていなかったため、晩年は、この完全版を仕上げることに力を注ぎました。
マイケル・チェーホフは、1955年、ビバリーヒルズで亡くなりました。
main source by MCC UK About MC http://www.michaelchekhov.org.uk
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