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スタニスラフスキー 「Creating a Role」 TRAINER LABO トップ
TRAINER LABO スタニスラフスキー 俳優修業第三部

スタニスラフスキー
Creating a Role
遺された最後の「俳優修業」の分析・研究

1.The Period of Study

 「準備作業」は三つの段階に分けられるでしょう。
@研究する A役の人生・生活を構築する B表現へと立ち上げる

FIRST ACQUAINTANCE WITH A PART

 スタニスラフスキーは、台本を初めて読んだときの第一印象を大事にせよといっています。 その後、詳細な分析に入りますが、初めて読んだときの新鮮さや興味や情熱は創造過程でも重要になります。そして第一印象は種であり、この種を大きく育てていくことになるのです。
  第一印象を大事にして読むには、俳優は、受け入れる気持ちで、適切な心の状態で、また感情を素直に感じる集中力、芸術的な感覚、オープンな精神が必要であるといっています。そして、純粋で新鮮な印象を受ける上で一番の大敵は偏見です。他人の意見も、弊害になるおそれがあるので、最初に台本に触れるときは外部からの影響を受けて偏見にならない状態で読みましょう。
  俳優の言語では、知ることと感じることは同意語ともいえます。 ですので、最初に読む際は創造的な感情で、しがらみを取り払ってください。俳優の想像力は、劇作家の作品に色づけをします。細かく分析しようと読むことはありません。最初はシンプルに、明確に、構造やエッセンス、本筋を理解しながらで結構です。劇作家の考えや感情、経験も感じ取ってみてください。
  そして、その後の作業で徐々に理解を深めていきます。空の雲間から徐々に光が現れていくように、広がっていきます。そして、最終的には闇が晴れ、光で覆われます。 ひとつひとつ様々な角度から解剖し、パズルを解いていきながら、読解の作業を進めていきます。

ANALYSYS

 二番目の準備作業は、分析プロセスです。文学的にも、哲学的にも、歴史的にも、様々な観点から分析ができます。しかし、俳優の分析は学者の分析とは異なり、感じるということが求められます。従って、俳優の分析は、とりわけ思考よりも感情で分析するのです。人は90%が潜在意識や感情から行動して、残りの10%が理性で行動しているものです。

〔創造的分析〕
@劇作家の仕事の研究
A創造的な作業で使う、精神的または他の素材への研究。作中や役柄に含まれるものであれば何でも。→インプロヴァイゼイションで使える
B 俳優自身について、同様の素材への研究。自己分析。素材は、ここでは生活や五感に関係する人の記憶、役の感情についてです。
C 意識、(特に)潜在意識両面で、創造的な感情概念への俳優自身の心の準備。
D最初読んだときにすぐには生きたものにはならなかった、役の精神に対する新しい生きた素材と新しい興奮を与えてくれる、創造的な刺激に対する研究。

 プーシキンは「誠の感情、与えられた環境での真実の感覚」を劇作家に求めましたが、俳優に対してもそのまま当てはまります。従って、分析の目的は詳細に研究し、作品内の与えられた環境に準備することなのです。のちに創造的なプロセスに入ったとき、真実の感情と感覚を持てるようになるためにです。
  直観的感情を刺激するもっともよいものは芸術への情熱熱意です。この2つを使って作中に創造的な刺激を探し、また創造的刺激は俳優の創造性を引き起こします。

  人間の1割を占める理性をどう生かせばよいでしょう。感情が沈黙してしまったとき、理性が役に立ちます。理性は感情のアドバイザーとなりますし、作品をあらゆる角度から探査する能力があります。そしてまた新しい見方を見つけ出すパイオニアでもあるのです。理性による分析が詳細で、変化に富み、深いほど、より熱意や感情や潜在意識的な創造性を刺激する要素を発見するのです。
  分析のプロセスは、いわば、作品とその登場人物に対し、限界まで長く広く深く、幾層にも渡って探求するということで、最初は明白な表面的な所からスタートし、最終的には最も内側にある深遠な精神的なレベルにまで到達するのです。
  作品と登場人物は生活の流れと共に幾つものがあります。最初は事実・出来事・筋・形式といった表面的な面からスタートします。それは、いうなれば階級・国籍・歴史を含んだ社会的な面でもあり、文学的な面ではテーマやスタイル、舞台に即した面でいえば、舞台美術の指定などがあります。更に、心理的な面では、内的行動、感情、内的特徴など。身体的な面では、容姿、行動の仕方、外的特徴があるでしょう。最後に、個人的な面では役者に属する創造的な感覚があります。これら全てが等しく重要というわけではありませんし、これら全てがすぐに判明するわけでもありません。ほとんどが一つ一つ明確になっていくことでしょう。そして、全てが融合していくのです。
  意識できるレベルは地球でいうと土や砂や岩などです。更に深い深いレベルへと進み、無意識のレベルになると、溶岩やマグマがあるように、深い所にこそ人間の本能やパッションがあるのです。その深遠なるレベルにたどりつくと、そこは超意識の領域であり、極めて神聖な「芸術家−人間」であり俳優としての「自分」がそこにはあるのです。そしてそこにはインスピレーションの秘密の源泉があります。これらを意識できなくてもいいですが、全てを持ってこれらを感じるようにしてください。

STUDYING THE EXTERNAL CIRCUMSTANCES

 戯曲の外側から内側に向けて分析を進めていきます。作品に書かれている、意識的に解釈できるところから、作品の奥のエッセンス、見えない何か、意識下で通じることができるような作家の世界へと向かうのです。
  作品の外側で、分析しやすいものは、ファクト(事実)です。すべての細かい状況、全ての事実、これらが重要なのです。それらは作品の生きた流れを構成するピースだといえます。感情やフィーリングではつかみにくい、情報を見つけるのです。これにより、単にファクトを収集するだけでなく、ファクトの中の役柄の立場が見えてきたり、本質や役相互の関係性が見えてくるのです。
  このファクトとはどういうものか。それは例えば、戯曲を全て説明するように話せば、それらはファクトです。スタニスラフスキーはグリボエードフの「知恵の悲しみ」を例に出して説明しています。

例)ソフィアとモルチャーリンは夜通し会っていました。夜明けです。隣の部屋ではフルートとピアノの音色が聞こえます。メイドのリサは眠っています。彼女は、時計を見ていないといけないのに。リサは起きます。そして、夜が明けつつあるのを知り、急いで二人に別れるよう懇願します。時計が鳴り、ソフィアの父が入ってきます。彼はリサを見ます。リサはうまく父の注意をそらし、モルチャーリンを逃します。

 このように、物語を語るように戯曲を話していけば、たくさんのファクトがあることに気がつきます。そして、これらのファクトは現在形であることに気づくでしょう。
  次に、社会面を分析するとどうでしょう。作品は社会的な背景からファクトが生じている場合が多いのです。

例)ソフィアとモルチャーリンのランデブーは、どんな風に見えるだろう? どういういきさつでこうなったのだろう?フランスの教育や本の影響があったのだろうか? ソフィアからはセンチメンタルで、思い悩んでいて、若さ特有の純粋さが見て取れる。しかし同時に素行のだらしなさがある。リサはソフィアを監視していたが、ちゃんとしていないといけない。このことで、シベリアに送られたり、農場を暮らしをさせられる恐れがある。ソフィアの父は当時のパリサイ人の服装であるモンクのような恰好ではないか?

  といった具合になります。
  他にも、作品の構成や構造、調和や素晴らしさ、展開の仕方や他のシーンとの結びつき、キャラクターの造形など様々なことに目を配ります。更に深く読解を進めていくと、芸術上の面も見えてきます。芸術上の面とは、芸術的なことも、演劇的なことも、照明や舞台装置・小道具など舞台のテクニカル的なことも含んでいます。これらはスタッフとの作業を進める中でも理解が深まっていくでしょう。
  こういう風に、非常に細かく、多角的に、深く分析していくことで、作品に精通し、影響を受け、クリエイティブな活動への準備を整えるのです。

PUTTING LIFE INTO EXTERNAL CIRCUMSTANCES

 知力を使った詳細なる分析を進めてきましたが、実在するファクトを築き上げてきたにすぎません。これらがあっても、真実の感情・感覚を伴うことが出来なければいけないのです。すなわち、乾いたファクトを生きたファクトに変えなければならないのです。このトランスフォームは芸術における非常に大事な創造力のうちの一つ、芸術的想像力の手助けを借りることで成し遂げられます。理性の面から芸術の夢の球に昇華するのです。
  毎日の実際的な生活だけでなく、想像力の生活をすることができます。俳優の想像力は、登場人物の生活を近づけ、役の特徴や質感を発見したり、適応したりすることができます。想像上の生活は内面からの創造的欲求の力によって、その人自身のなかで創られ、蓄積されます。俳優自身の内面と非常に呼応しています。そして、想像上の生活は、実際の生活よりもより魅力的になります。
  俳優はを愛し、その使い方を知るべきです。これは重要な能力のひとつです。材料を与えられると、そこから想像の世界を作り出せるようにしましょう。玩具遊びをしたり、ゲームに没頭して楽しむ子供の能力と似ています。作家の世界と主題から逸脱していなければ、俳優は夢の世界で完全に自由なのです。

 私たちは、インナー・アイで、視覚のイメージを見ることができますし、インナー・イアーで、聴覚の音を聞くことが出来ます。俳優には視覚を得意とする人もいれば、聴覚を得意とする人もおり、スタニスラフスキーは前者のタイプの俳優でした。
  そして、イメージの喚起の仕方は、受動的なタイプ(パッシブ・イメージング)能動的なタイプ(アクティブ・イメージング)に分けられます。受動的なときは、私たちは想像の夢のなかの観客となり、能動的なときは、夢の中の俳優となれるのです。

 最初はすべてのものを細かくイメージできるわけではありません。例えば人をイメージしていたとしても、顔はないかもしれません。こういった曖昧なイメージでも、時には埋めてくれます。徐々に、具体的なイメージを鮮明化さていき、イメージのなかの人々に感情移入する所まで来たら、とてもいいサインです。
  しかし、スタニスラフスキーは、すべてのものを具体的に細かくイメージするという実験を通して、大事なことに気がつきました。重要なのは、すべてを鮮明化させることではなく、そのイメージの対象が今自分の周囲にあり、そしてそれを感じているということです。イメージの人であれば、その人の顔やヒゲ、服装といったものは本当に重要ではなく、その存在をリアルに感じているということが第一なのです。
  イメージに実在感を感じると、あなた自身の実在感を感じるようになるでしょう。それには、受動的なだけではなく、能動的になるべきです。受動的な観察から、能動的になることで、状況や生活・対象などの中心にいることを発見します。そして、そこに「いる」という感覚を得て、自らがイメージの主人公となるのです。

CREATING INNER CIRCUMSTANCES

  外側の知的な分析から、内側の、魂からの人生・生活に深く入っていくために、必要なのは俳優の創造的感情の助けです。
  観察者から当事者へと変わり、存在しているという感覚(the state of "I am")に至るまでに、スタニスラフスキーは「知恵の悲しみ」の稽古で、周囲の物質的なものに目を向けました。家の中を歩いてみましたが、特に成果はありませんでした。しかし、一瞬だけ、そこにいるという感覚を持つことが出来ました。玄関からドアを開けて肘掛けイスを外に出したときです。時間にして数秒で消えてしまいましたが、確かに存在の真実感をそこで得たのです。キーとなったのは「物(object)」でした。そこでスタニスラフスキーは様々な物を手に取ったり運んだり、ほこりを払ってみたりしたのです。物や壁や空気や、周りの全ては生命感を持っており、確かにリアルで、そのことを感じることで自分が存在しているという感覚が強化されました。 そして、稽古を積むことですぐに実際に存在しているという感覚を得られるようになりました。

  また、自分の演じる登場人物の声を心の耳で聴くことで、身体的にも近付いた感じがしました。身体の感覚が不充分なときには、その人物の魂を感じるようにトライしました。形の上では、うまくいきませんでしたが、人は究極の所、言葉や仕草という手段よりもむしろ、見えない意志の放出(radiation)と2つの魂を行き来する波動(vibration)でコミュニケーションを取るものだと気づいたのです。このことを登場人物に対して試みることで、存在しているという感覚を手に入れる助けになりました。
 そして、意志や感情の光線(ray)を使って、放出したり、受け取ったりするようにしてみました。役というのは、実在しない架空の登場人物です。しかし、存在するのです。様々な分析で、その人物のことが理解できるようになりました。今度は、魂から近付くことが必要なのです。そして魂から交流することが必要なのです。

 もし俳優が、自ら存在しているという感覚、創造的な内面状態を持つことが出来、また生命ある物をリアルに感じることが出来、想像力が作りだした登場人物の幻影とコミュニケーションを取り、自由に動き回ることが出来れば、外内両方の環境に生命を吹き込むことができるでしょう。そして生きた魂の息吹があらゆる箇所でも現れるでしょう。

APPRAISING THE FACTS

 スタニスラフスキーは、劇作家によって作られたファクトに対して、イマジネーションを使って、新しい正当化を試みました。そのときに行ったのは「Magic If」です。「もし、自分がソフィアだったら〜?」「もし、モルチャーリンだったら〜?」と想像したとき、彼は賛同できる気持ちになったり、拒否反応を示したりしました。劇世界と同じような気持ちにはならず、例えば「こんなひねくれたソフィアを愛することなんて出来るだろうか?」などと思いました。
  確かに、演劇作品の中には善人もいれば、悪人もいるし、魅力的な人間もいれば、欠点だらけの人間もいます。従って、そのキャラクターの立場に立つということが必要になります。その人物が客観的に欠点だらけの人間でも、その人物はもっといい人間だと思っているかもしれません。文学上の事実ではなく、そのキャラクターの感じ方に信頼を置くことも必要になります。イマジネーションを駆使して手がかりを掴んでいき、納得できる状態を目指すのです。

 俳優は、観察や知ることを繰り返すことで、経験や印象や記憶が積み重なってゆき、ファクトやイベントの理解が深まり、内なる状況も外部の状況も明確になってゆきます。毎日のように想像力を使ってこうしたことを続けることで、この習慣は俳優にとっての第2の能力になります。劇世界のことが、新鮮で生きた、生の出来事に感じられてきて、自分のこととして染みこんできます。
 
こうなると、最初はただの「登場」という認識だったト書きも、非常にたくさんの意味がある、重要なアクションだと気づいたりします。

 我々が必要なのは、中身の伴ったファクトであり、内部の感情の結果として生まれたファクトです。こうしてファクトを分析することによって、キャラクターたちの闘争や克服、運命や誰かへの屈服など、行動の源が見えてきます。そして、彼らの目的や生き様、内面のライフなどが明らかになります。これこそ、追求しているものです。
  我々は発展していく内面の流れを追っていかなければいけないし、キャラクターの内面の流れのパターンを見分けなければいけないし、また、交差し分岐するおのおのの目的を見極めなければいけないのです。したがって、ファクトの理解は、その人の人生・生活の、内面を理解することといえるのです。
  そして、これらはいつでも新しく理解し直すことが大事です。そのことによって新鮮な想像力の刺激を受けます。常に新しいアプローチを通して新しい刺激を受けることをしなければ、俳優はすぐに飽きてしまい、演技も生きた感覚から遠のいてしまいます。

 

2.The Period of Emotional Experience

 第一章の「The Period of Study」でのワークは、ほんの準備に過ぎません。この章は「創造」です。植物が育つのと同じように劇作家の種は俳優の魂の中に芽づき、根を出すのです。
  準備のピリオドで、与えられた環境を生み出すことが出来たら、次のピリオドでは本物の感情、役の芯、役の内面のイメージ、魂からの生活・人生を生み出すのです。この役の感情経験はベースであり、創造の中でも最も重要な要素です。

INNER IMPULSE AND INNER ACTION

 スタニスラフスキーは、第一章での実験や準備の末、「知恵の悲しみ」のファムソフを自分自身に感じることが出来るし、感情や欲望、目的への衝動を感じることが出来るようになりました。
  衝動は行動を引き起こします。但し、衝動だけでは行動になりません。衝動は内側から来る欲求や充たされない欲望で、行動はそれらを充たす内的・外的なものです。衝動は内的行動を導き、内的行動は外的行動を導きます。スタニスラフスキーは、目的を遂行する手段を探しはじめ、ファムソフの置かれた状況から様々な考えられる行動を創造したのです。但し、役に非常に接近している状態でありながら、ファムソフが怒れば自分は冷静にし、ファムソフが冷めてきたら、自分は感情をけしかけ、怒らせようとしたりしました。そうすることで、全ての微細な内面の調整が出来上がりました。

 「もしソフィアの状況だったら、どうするだろう?」とイマジネーションが感情に尋ねます。そうするとためらうことなく、「天使のような笑顔を浮かべるだろう」。「それで?」「かたくなに沈黙を保つだろう」……そう、感情が答えます。 このように、イマジネーションと感情を使って、「Magic If」を行い、更に「それで?」と質問を深めることで、確かな真実の行動を見つけています。スタニスラフスキーのイマジネーションは劇世界を様々な角度で深く広く見ていきます。まるで劇作家として世界に入っているように、思考の中でキャラクターたちが動いています。

 「ライフ・イズ・アクション」。人生・生活は行動なくして成り立ちません。そして行動は、歩く・腕を動かすなどの動きのほかに、インナー・ムーヴメント衝動があるということを覚えておきましょう。従って、アクションにはこの2つがありますが、マイムにはないのです。それがマイムとアクションの違いです。内的な、身体化するわけではない、魂からの行動(spiritual activity)。そしてこれは、ある目的の遂行に向かって、欲望と衝動が合成されたものであるのです。
  衝動もなく、正当化されてもおらず、内側から生じてくるものもない舞台上の演技というのは、単に目と耳を楽しませるものに過ぎず、心には響いてこないのです。 受け身の、何も動かず、感情に溺れているという演技を好む人もいますが、これはクリエイティブではなく、自分の中だけに留まったものとなり、観客の心まで届きません。
  人生・生活は、衝動や欲求の連続で、絶えず行動を繰り広げているのです。
  ただ、一つ注意しておきますと、これらの衝動や欲求は、戯曲の上で書かれているという借りものではなく、クリエイティブな芸術家としての俳優本人から出てくるものです。俳優本人が役の生活を経験するのです。

CREATIVE OBJECTIVE

 いったいどうすれば創造的な意志の感情がわき上がってくるのでしょうか? 創造的な感情は命令や無理強いしたところで沸き上がってはきません。上手く誘導してあげる必要があるのです。これには、創造的目的(creative objective)が有効です。
  目的は創造性を磨きます。目的は感情を誘発します。また目的は、生きたキャラクターの脈となります。 舞台上の人生・生活は、現実の人生・生活と同じく、目的と達成の繰り返しによって成り立っています。また目的は音楽でいう音符ともいえます。音符がメロディーを導き出すように、俳優は感情を導き出すのです。

 舞台での意識した目的は、ドライで魅力がなく、生きた感情に乏しいものです。そのキャラクターを生きているのではなく、筋をなぞってしまってはいけません。しかし、生きた感情や意志を導き出すための道具としては有効です。理想的な創造的目的は、無意識です。内側から瞬時に沸いて出てくる、直観からの動機です。
  感情や意志、精神を直観的に導き出すコントロール力は、俳優としての高度な能力です。それには目的を本物のものと信じていないければ、感情も信じられません。その技術の一つが感情の記憶でしょう。

 意識的―無意識的  →目的←  内的―外的  魂―身体

 スタニスラフスキーは、例えば部屋に入るというアクションでさえも、一つの動きとして単純に入るということができませんでした。というのも、真実性を保つためには、そこに、廊下を歩き、ドアをノックし、ドアノブを回し、ドアを開け、入り、挨拶をするという細かい動きを意識していないといけないのです。身体的な目的は習慣的で機械的な動きでありますが、同様に心理的な目的にも無限の細かい必然性があります。
  それらの身体的・心理的な目的は、連続した有機的な結びつきがあり、人間の習慣や生活が大いに投影されています。心と身体は表裏一体で、結びついており、その流れには連続性と論理性があるのです。 

 全ての細分化された身体的目的と心理的目的を、キャラクターの気持ちと性格にマッチした形で、舞台上で精密に成し遂げるのは容易ではありません。困ったことに、俳優は、キャラクターやその心情を表現するのに、台詞に頼ってしまうのです。台詞に頼り、台詞の順番に沿って演技する状態では、心理的・身体的目的の論理的な結びつきは壊れており、そのキャラクターの人生・生活は崩壊しています。クリエイティブな目的や感情でなくては、俳優はありがちな演劇的な紋切り型演技になってしまいがちです。

THE SCORE OF A ROLE

 ここでスタニスラフスキーは、「知恵の悲しみ」での一場面を切り出して、どのような身体的・心理的目的をたどっていくかを書いています。それはインナー・モノローグといっていいものです。インナー・モノローグは口に出す言葉ではなく、頭で考えている言葉です。
  例えば、「彼に挨拶をしなければならない。誠実な振る舞いで挨拶を交わさなければならない」「私はソフィアについて尋ねなければならない。彼女はどこにいるのだろう? 元気だろうか? 起きているだろうか?」「私は素早く最終目的に到達したい、すなわちソフィアに会うことだ。子供時代からの愛しい友人、妹みたいなものだ」
  などと、連続した行動とシーン展開によって、その場に沿った内部の感情や目的を端的に書いています。
  このシーンにおいて、彼は「長い間夢見ていたかのごとく、ソフィアと会うために急ぎたい」という大きな目的をおいていました。そしてその目的が達成されると、また次の大きな目的が出てきます。
  みなさんはスーパーオブジェクティブ(超目標)という言葉を聞いたことがあるでしょうが、別に一作品を貫通する大きな目的だけをスタニスラフスキーが述べていたのではなく、実際には小がたくさんあつまって、中となり、中がいくつか構成されて大となるように、細分化しながら常に目的というものを捉えています。
  これらの目的の構成を作ることに慣れることです。

THE INNER TONE

 ここまで述べてきた、Magic Ifや目的で、俳優の創造における必要性を全て満たせるでしょうか? スタニスラフスキーは、ここまでの章でかなり詳細で奥深い方法を紹介してきましたが、そう問いかけます。まだ足りないと感じるときがあるのです。
  選択された目的は、外的なものであり、その影響は表面的に過ぎなかったりします。時折、自身の内面に深く触れる場合はありますが。これらの、いってみれば楽譜は、方法や道筋を示すことはできますが、真の創造性を引き出してくれるわけではありません。人生・生活を生み出すことは出来ず、すぐに命をなくしてしまいます。
  それ故に、次の目指すところは、絶えず自分自身に働きかける目的の発見であり、人生・生活が身体面(行動面)の楽譜となるようなものです。
  創造的な目的は、単に興味を呼び起こすだけでなく、パッションや興奮や欲望や熱望、そして行動を呼び起こすに違いありません。
  内面の充足、感情、心理的な動機があることで、大きな目的も小さな目的も機能します。それらがなければ、心のない役になるでしょうし、目的も空虚なものになるでしょう。

 新しい内面の状態が、目的をリフレッシュさせたり、色づけたりし、また深い意味や新しいベースや、内的動機を添加したりする。この変化をもたらす内面の状態や気持ちをインナー・トーン(inner tone)と呼びます。気持ちの芽生えと呼んでもいいでしょう。
  楽譜が同じでも、目的が同じでも、感情は色々と変化し、一定ではないでしょう。深い部分で、新しい目的を付け足すとどうなるか、スタニスラフスキーは実践してみました。これは、同じ楽譜を違うキーで演奏するというようなものです。その結果、深い部分で色合いが変わり、完全に違う印象となり、より内面が充実しました。

 人は、熱情(passion)に駆られているとき、彼の全てはその中にあり、身体的な目的など忘れてしまっていますし、投げ出してしまっています。実際の生活では、我々は何かをしていることに対して(歩いている、ベルを鳴らす、ドアを開ける、会釈する等)特に意識していません。日常の動作は、ほとんどが無意識に行われています。身体の中に習慣が組み込まれており、魂の中には深い心理が組み込まれています
  身体(body)と魂(soul)の結びつき……「psycho-physical」と呼んでもいいでしょう。
 例えば、愛の熱情だとして、その熱情を役者はどう引き出せばいいのでしょうか? 準備が必要でしょうし、熱情そのものを知っていないといけないでしょう。熱情を引き出しやすい手段を考えるとしても、意識的と無意識的双方の、とても不可解で複雑なパターンとなりそうです。芸術は科学ではありませんが、科学的な見地から見た愛の知識も必要かもしれません。スタニスラフスキーは混乱しそうになりましたが、脳ミソではなく心の中に愛というものを感じることが第一だと思いました。
  スタニスラフスキーはこのように感じました。それは植物のように、種から芽を出し、根を張り、茎が伸び、花が開くという一連のプロセスです。これはどんな熱情にも当てはまります。あくまで自然に。
  全ての熱情は感情的に経験した複雑なものですし、異なる感情や経験、状態が様々に組み合わさったもの。しかもしばしば矛盾をはらんでいます。これは、絵の具のようなものかもしれません。一般的なトーンが赤、青、黄、白、黒だとして、個々や状況等を混ぜ合わせることによって、紫や薄い青、黄緑などに変化します。赤の愛もあれば、青とグレーが混じったような愛もあるでしょう。

  また、熱情そのもののみを考えるのではなく、相対する感情についても探さなければいけません。パレットには様々な色があり、人間の熱情は色とりどりに表現されます。善良な人間を演じるのであれば、悪の部分を、知的な人間であれば精神的に弱い部分を、陽気な人間であれば真面目な部分を、というように。事実、一つの役柄を取ってみても、芝居の進行によって熱情は様々に変化します。
  嫉妬の感情で嫉妬を表現する、悲しみで悲しみを表現する、悪人は全てが悪……という表現では一般的な表現にしかなりません。相反する要素を考えるべきです。人間の熱情の複雑な表現を目指すべきです。
 人間の熱情そのものをよく知り、人間の奥深い心理を熟知すれば、より複雑で詳細で変化に富む表現が可能になります。
 
 このアプローチのためには、戯曲に書かれたそのキャラクターをよく分析しなければならないし、分析するには、細かくも大きくも見ることが必要ですし、目的も把握していないといけません。トーンが多彩で深まれば、より役の芯に近づけるはずです。また、楽譜に内的にも外的にも状況の変化を加えることで、無限の可能性を生み、より深く多彩な役作りができます。

THE SUPER OBJECTIVE AND THROUGH ACTION

 役の最も深い内部、核、あらゆる目的の集約……それがスーパーオブジェクティブ(超目標)(Super Objective) です。全てのオブジェクティブの集まりであり、ゴールであり、役の全場面での集中です。そのスーパーオブジェクティブというのは、超意識的な言葉には言い表せない、その役のスピリットそのものかもしれません。
 作品のスーパーオブジェクティブを考えると、 「カラマーゾフの兄弟」のスーパーオブジェクティブは、作者の神と悪魔に対する探求であり、「ハムレット」の場合は存在すること(生きること)の意味であり、「三人姉妹」は、よりよい生活への憧憬でした。これらの場合「テーマ」といっていいかと思いますが、スタニスラフスキーは作者の魂や作品の根幹に流れるものを感じ取っていました。
  極めて稀な天才芸術家のみが、スーパーオブジェクティブの感情的体験、作品の魂との融合、作家との統合が可能です。
  強大なオブジェクティブは、感情や概念、深さ、魂からの洞察、生きる力といったものを内包します。一つのスーパーオブジェクティブは、俳優の魂の核に根付いて、枝葉のように無数の小さなオブジェクティブを生み出します。

  スーパーオブジェクティブは、行動の流れ(Through Action)を創り出します。スーパーオブジェクティブと行動の流れは、創造的な目的と創造的な行動であり、役の中の、全ての細かい分離した目的や行動や単位を内包します。スーパーオブジェクティブは作品の髄です。全ての作品、全ての役に、人生・生活を成す行動の流れとスーパーオブジェクティブが隠れているのです。行動の流れは、自然な熱情、宗教、社会、政治、芸術、善悪など、その人間の全てを反映して形作られます。

 スタニスラフスキーはかつてゴーリキーの「どん底」の最終幕で、表面的な動機に過ぎない酒に酔った浮かれ騒ぎを演じて失敗したといいます。昔は形式的で機械的な行動が癖になっていて、18年間もこの作品で同じ過ちを繰り返していたといいます。そして後になって、新しい刺激や新しいアプローチを試すようになったのです。ただの浮かれ騒ぎを演じるのではなく、役の気持ちや状況、他の人物との関係性などを模索することで、実は酔ってはいないということに気づき、新しい演技になったといいます。

 スーパーオブジェクティブという大きな願望があれば、行動の衝動となり、そして達成へのプロセスを創り出します。そして、人生には困難や障害や葛藤がつきもののように、行動の流れの中にはそれらは生まれます。決して簡単に目的が達成されるわけではありません。従って、ある役のスーパーオブジェクティブと対立するカウンター・スーパーオブジェクティブもありますし、行動の流れと対立するカウンター・スルーアクションも存在します。これが劇的さを生むのです。
 創造的な目的があってこそ、俳優は役を生きることが出来ます。スーパーオブジェクティブや、創造的な意思、生きた感覚がなければ、陳腐で機械的な演技に取って代わってしまいます。

THE SUPERCONSCIOUS

 意識を超えた領域である、直観や無意識の領域は、理性ではなく感覚、そして思考ではなく創造的な感情によってアクセス可能です。スタニスラフスキーは、理性や思考による意識的な演技のみでなく、そのレベルを超えた超意識や潜在意識にまで関心が及んでいました。だからこそ、彼は魂からの人生・生活を舞台に乗せようとしていたのです。
  この領域に到達するためには、磨かれていない俳優では駄目です。芸術家の魂を持つ者でなくては到達できません。

  あいにく、無意識の領域は無視される傾向にあり、ほとんどの俳優は表面的なレベルに制限されています。観客も表面的な表現で満足しています。しかし、芸術の本質、創造性の源泉は、人の魂の深くに隠されているのです。
  スピリチュアルな存在としての内奥に、通常意識を超えた超意識の領域に、神秘的な「私」という存在、インスピレーションそのものに。

 どうすればそのような領域に到達できるのでしょうか? これは人間としての生まれ持った資質・性質となるでしょう。生まれてから身につけたものではなく、人間が持っている内奥の源次第であり、いってみれば世界の中で創造する生命の性質です。

 感情が微細になればなるほど、超意識に近づきます。源の本質に近づけば近づくほど、通常意識から遠く離れていきます。
 精神の庇護から離れ、決まり切った法則や偏見から免れると、源の本質は力となります。無意識へのアプローチは意識を通して行われ、現実離れした超意識へのアプローチは、現実または超自然(純粋なる創造的人生・生活)を通して行われます。

 インドの行者のように、無意識や超意識の領域から奇跡を行う人であれば、実践的なアドバイスができるかもしれません。彼らは意識から無意識へ、身体からスピリチュアルへ、現実から非現実へ、自然主義から抽象へとアプローチしたのです。
 彼らのように、俳優もまた「一握りの思考を持って、無意識の袋へと投じる」方法を学ばなければ、自らの超意識とのある種の交流を築くことはできないでしょう。一朝一夕では成し遂げられないことです。袋に入れ続けることを繰り返し、いつか丸ごと手にできる日まで、忍耐強く修行をしていかなくてはならないのでしょう。

 俳優は、袋に入れ続けるために、勉強し、本を読み、観察し、旅をし、社会的・宗教的・政治的・あらゆる人生を知る必要があるのです。
 種を植え、辛抱強く育つのを待たなくてはなりません。

 インスピレーションは、俳優がなにをしようが勝手に生まれるものと信じる人がいます。しかし、インスピレーションというのは、駄々っ子のようなもので、現れたかと思えば、すぐに意識の奥に隠れたりします。

 超意識やインスピレーションについて考える俳優は、他のなにものでも満足できないくらいの確固たる意志で、適切な内面の状態を築けるよう自分自身を気にかけておかなくてはなりません。そうすれば、その人にとって第二の天性となることでしょう。

3.The Period of Physical Embodiment

 第三の期間は、登場人物の具現化になります。
 これまで願望や目的や熱情について探査し準備してきたので、身体的にアクションに移すときがきました。言葉や動きを通して、目に見える形にします。

 スタニスラフスキーは 「智恵の悲しみ」に立ち戻って考えたとき、この時代の違う人物にどうアプローチすべきか考えました。とにかく想像の旅をして、「なぜ?」という問いかけをしなければなりません。そして、当時の時代の風習や価値観についても考えなければいけません。しかし、「自分だったらどうだろう?」という視点も忘れてはいけないのです。
 しかし、現代の自分自身の視点だけでは理解できないことだらけになるので、当時の登場人物に没入した上で、疑問を問いかけます。

 創造的な疑問や苦悶からは、どんなに役をこなしても、どんなに経験を積んでも、決して避けることはできません。

 天才の作品は明確性・繊細性とともに、作家自身の見えない思考と感情を現した確かなエネルギーがあるものです。従って、一つ一つの言葉に感情や思考が込められ、理由付けがされて存在しているのです。冗長な言葉に見えたとしても、無駄なものはひとつもありません。俳優は、理解し、発見し、生きた表現に変えていかないといけないのです。
 身体的に具現化するはじめの期間は、創造的な感情を、言葉や声や仕草や動きや表情などで、あの手この手で表現しようとするあまり、大げさになるかもしれませんが、徐々により良い選択がなされ、削ぎ落とされていくでしょう。

 インプロヴァイゼイション(即興)を始めるとき、ポイントは内面に熟成された願望や目的を行動に移すということです。これらの願望や目的は、作品の中に事実としてあるものの「フリ」をするのではなく、稽古場で実際に構築されたものであるべきです。内的な衝動で、自発的に行動に現れなければいけません。
 そうはいっても、劇作家の作品世界を忘れて、暴走してはいけません。

 俳優はいまやリアルな状況に身を置く存在であり、想像上のものであった周りの世界は事実となっています。同時に、演じるキャラクターの過去・現在・未来の影響下にあります。
 スタニスラフスキーは、即興によって、稽古場での目に見える現代の状況と、時代の違う作品世界の状況とをくっつけようとしました。想像上の状況に浸ることはさほど難しいことではありませんが、時代差の感覚を埋めることには苦労したようです。
 あなたが役に没頭して、そのキャラクターとして即興をはじめたとき、目の前にいるのは時代の違う人間でありしかも俳優たち。そして時代の違う場所にいるのです。また、当時のマナーではない、現代のアクションをされでもしたら、そのギャップが認識されてしまいます。スタニスラフスキーはいらだちを感じました。

 仲間の俳優の一人が、スタニスラフスキーの真似をして大いにふざけた振る舞いを取ったとき、スタニスラフスキーは恥ずかしく、あまりの低俗さに言葉を失いましたが、その目から入った強烈な体験は、仲間のキャラクターへの嫌悪をこれまで以上に強め、役作りに役立ちました。

 目は、魂の鏡といえます。目は、身体の反応器官です。目は微妙なものも明白なものも雄弁に語り、そして抽象的でもあります。言葉以上の力を持つこともあります。
 目、そして顔による表現は非常に微細に、感情・思考・感覚を、筋肉としての動きすらほとんどなく伝えることが出来ます。内なる心の動きに従って、目と顔の筋肉は反応すべきで、機械的・意図的な筋肉の動きによる目と顔の表現は、いかなるものも「微細な雄弁さ」を破壊してしまいます。
 それ故にわざとらしい筋肉の動きにならないように、システマティックなトレーニングによって染みこませておかなければいけません。悪い癖は、なにか良い癖に取って代わらない限り、直りません。
 顔の緊張や人為的なつくりは、感情の理解を歪めてしまいます。表情表現はいつでも、内なる感情と結びつき、正確さと即時性をもって伝えられなければいけません。

 内なる連携でない人為的表現や緊張は、禁止することで達成できるわけではありません。身体に禁止することはできなくても、身体を導いていくことはできます。禁止して直そうとすると、雑草のように増えることでしょう。そうした癖は非常に頑固です。外的なメソッドや、機械的な人工表現は、すさまじいスピードで習得されてしまい、長く残ることになります。
 身体の筋肉の記憶は非常によく発達しています。逆に、感情の記憶や経験は、とても弱いものです。
 俳優の内なる創造性がより豊かになれば、声も美しくなるはずだし、話し方もより完璧になるはずだし、表情も豊かになるはずだし、身体もより優美になるはずだし、全身の動きも機能的になるはずです。
 舞台での具現化というものは、真実であるときのみにいいものになります。そのとき、内なるものが芸術的な形となるのです。

 手がかりは自分自身にありますが、もし、自分の中で見つけられないのであれば、探さなければいけません。街で観察したり、モデルを探したり、色々な職業の、様々な人間が存在します。
 役の外見を創りあげていくためには素材を集めていかなければいけません。メークや服装、姿勢などあります。写真や絵から集めてもいいでしょう。また、それらが役に立たないというなら、想像力をフル稼働して、例えば役の姿を絵に描いてみましょう。口や眉毛、シワなど、細かいところまで描いてみます。
 外側のイメージが生き生きと出来上がってくることで、内側のイメージも付随して、体つきや歩き方、動き方などを認識します。

 役の具現化のためには外的要素を埋めていくことが肝心ですが、それでも超意識的な目に見えない感情については手が届きません。それらは、魂から魂へと直接的に移していくのです。
 最もよくある深刻な問題は、俳優が目に見えるもの、耳に聞こえるものだけを信じる場合です。人間の意志と感情による見えない放射(radiation)によって直接的に交感するパワーこそ偉大です。人間は内なる意志の発露や魂からの放射によって交流しています。それらは劇作家が言葉にできなかった、最も重要な要素で、観客を虜にします。
 意識的にも無意識的にも、俳優が内面を放射できるようにさせてください。そして、俳優たちには、最も効果的で抗いがたい、繊細で強力な表現手段を持っていることを信じさせてください。

4.First Acquaintance

 「First Acquaintance」とは、作品との最初の出会い、初めて読んだときの印象や理解のことです。「オセロー」ひとつ取ってみても、詳しい内容はよく覚えていない人、特定の人物ばかりの印象が残っている人など様々です。
 初めて読んだときの印象は大切です。なぜなら、一度しか味わえないからです。それは、創造的な刺激になります。二度、三度読んでいくと、創造的な印象が薄らぐものです。

 しかし、読む人によって印象が異なるために、適当に読んでいると、かなり偏見を持ってしまう恐れがあります
 一部だけを切り取った絵画を見たとして、全体像がわかるでしょうか? その絵の素晴らしさがわかるでしょうか? もし、中心人物だけを追って読むなら、作品の全ての素晴らしさを理解することはできないでしょう。
 また、どこかである戯曲に対する解釈や印象を耳にしていたとします。例えば「あの作品は退屈する」「主人公の女性は陰湿だ」などと。そうすると、それらの第三者の声を引きずる可能性があります。もし、その戯曲を演じることになったとき、障害となる恐れがあるのです。これも偏見です。ですから、周りの声に惑わされずに、自分で見抜く力が必要になります。

 偏見は、ある意味で素晴らしいものであり、ある意味で厄介です。たくさんの作品を読み、更にたくさんの意見や批評を聞けば、おのずと偏見に惑わされず自己の解釈を保つことができるようになります。そうして作品を観る眼も養われます。
 あらゆる作品が人体と同じように、骨や四肢があります。それらの構造を知り、細部を解剖することです。作品をそのように評価できることは大変素晴らしい能力です。

 作品に対する理解は、真っ暗な部屋にそこかしこに光の割れ目が出来、広がっていき、闇が消えていくような感じです。しかし、個々によってまったく捉え方は異なるもので、読後の感想を聞いても、めいめい覚えていること、鮮烈に印象に残っていることは違い、個々の視点で捉えていることがわかります。
 作品のなかには、感情がわき起こってきたり、感情の記憶が蘇ってくる箇所もあれば、ロジカルで理性的な箇所もあるのはなぜでしょうか。それは感情と思考の違いです。作品の中には、感情を喚起させるところもあれば、思考で分析し理解したくなるところもあるものです。
 天才の見事な作品は外側が美しくありながらも深さがあります。もし表面的な美しさしか俳優の目に入らないなら、演技も表面的になるでしょう。あなたは豊かな感情でもって作品の深い部分に浸透し、登場人物のありのままの姿を捉えるべきです。「情熱」は、あなた自身と登場人物を深いところで繋ぎます。

 それでは作品をより深く、広く捉えていくためにはどうすればよいでしょうか。まず全体を注意深く読まなければ行けません。作家の作品を通して使われている全てのルールを分析してみましょう。Second Acquaintance(二度目の読み)では、もちろん一度目ほど感情が動くことはないでしょうが、直観を妨げるものがなく、生き生きとした感覚のままに、作者の創造的な衝動や、生きた人間の魂からの生活を受け取ることが出来るでしょう。
 芸術的な情熱は、クリエイティブでパワフルな動機で、本当に知るべき情報へと近づけてくれます。そうした創造的な熱を持っていると、無意識的に役の深いレベルまで探求できるものです。
 感情・意志・精神に火をつける能力は、俳優の能力の一つであり、大事な課題の一つです。

 作品の骨格を発見するためにはこのように質問するといいでしょう。「これがなければ、この状況や出来事や経験がなければ、この作品は出来上がっていないというのものはなにか?」。「オセロー」であれば、「オセローとデズデモーナとの愛」「イアーゴーの狡猾な計画」「人種差別」「権力社会を崇敬する考え」などが挙げられるでしょう。

5.Creating the Physical Life of a Role

 なにか物質的な目的を達成するのはシンプルであっても困難なことだとトルツォフはいいます。この章は、完全に「俳優修業」と似通った書かれた方がしています。まず話に上がるのが、舞台登場の際のリアリティです。生きている登場人物(イアーゴーやロダリーゴーら)は、生きているように舞台に出てくるはずですが、俳優が登場するように出てきてしまっては登場人物のリアリティが損なわれます。つまり、観客を意識した現れ方はしないはずです。
かといって、演劇には約束事があり、不用意に観客側に背を向けたりすることはできません。だからこそ、よく熟知し、自然に解決しなければなりません。
 「オセロー」の課題において生徒たちは、騒がしく出てしまいました。それは不安と、観客を楽しませようとする意識からで、特定のオブジェクティブが(ブラバンショーの家はどこか、近くに人はいないか、窓に光はないか、など)ありませんでした。その結果として、過度に演劇的で、生きたものにはなりませんでした。また、動きが多すぎるので、75〜90%の動きはカットする必要がありました。それから、身体に過度の緊張がありましたし、動きにロジックや繋がりを意識する必要がありました。
 こうして、登場のシーンだけで多くの指摘があり、その後もトルツォフによる指摘は繰り返されました。

 スタニスラフスキーが求めるのは表面的なゴム版演技ではなく、真実の演技です。それは誇張が取り去られ、自然でシンプルですらあります。無理矢理作った動きではいけなく、筋肉は自然に動いていなければいけません。わずかな不真実さが他の全てを壊します。これらは「俳優修業」の第一部からいわれていることですが、この第三部でも出てきます。真実さのためにはスーパー・オブジェクティブ(Super Objective)と行動の流れ(Through Action)が役に立ちます。

 生徒たちはベネチアンゴンドラに乗って登場するというやり方を提案されました。しかし、台詞がないのでなにを喋ればいいかわからないとある生徒がいいます。トルツォフは、「言葉は問題ではない。サブテクストから出ていないといけない。俳優たちは、サブテクストを深く探る努力を怠り、表面的にかすめとって台詞を発しようとしがちだ」と指摘します。実はトルツォフは台本を渡さずにシーンをやらせていたのですが、それは台詞があるとそれらの言葉に囚われ、その役柄の立体像もなく、考えもなしに書かれた言葉を発しようとするからです。
 台本の台詞の落とし穴は、アクティブさや真の意味を損なわせ、機械的に、さも俳優的にさせてしまうということです。演じる役の線が繋がっていない状態で、台詞を喋るのは危険なのです。

 役の輪郭を形作るまで時間を取ってサブテクストを開拓すること。言葉がその役の内的要素を具体的な行動で表現する武器となるように。言葉が目的を達成するために必要なものとなるように。シェイクスピアの台詞が、その役の本当の目的と合致すれば、目的達成のための最高の手段となり、情熱を持って、新鮮な気持ちで台詞を扱えるようになります。
 ですから、台詞の輝きを失わせてはいけないし、機械的に、使い古された形で喋っては、魂を失った台詞となってしまいます。
 生徒たちは、更に登場のシーンを深めていきました。役の目的と行動と達成のための手順。一つひとつの動きが綿密に議論され、テストされ、身体的にも精神的にもしっかりと筋が通った形で行われました。目的と行動をどんどん強めていきながらも、そこからぶれないように。考えすぎず、即興的に実行。より充分に、より深く、創造的に開拓していきました。

 どうすれば、より自然で、直接的で、直観的で、内的なアプローチを作品や役に対してできるのか? 役には二つの性質があります。それは身体と精神です。スタニスラフスキーは、身体から始めるといいます。なぜなら、精神は身体の行動の反応に過ぎないからです。
 身体行動は電池の入れ物であり、感情や感覚は電気そのものです。電気がなくなっても、入れ物があればまた満たすことが出来ます。また、身体から真実の演技を導き出そうとする方が、精神から導き出そうとするより楽だといいます。

6.Analysis

 「作品と役の研究(分析)プロセス」とトルツォフはテーマを掲げました。
 役を完全に自分のものにしているとき、システムの全てを忘れ、魔法のような自然のパワーに委ねているだろうといいます。自然で、直接的で、直感的な、役を生きるという到達点に向かうために、これまでサブテクストを探り、正当化し、身体行動からアプローチしました。ここでの手段は、「分析する」ということです。分析とは、役の魂の部分を感情的に深める目的であり、そのためには人間の魂としての人生・生活を外的にも内的にも理解しなければいけません。

 その役の外的な状況や出来事を研究します。そこにはヒントがあります。また、その役ならではの感情的な衝動や体験を研究します。スーパー・オブジェクティブや行動の一貫したラインも見つけます。分析とは、解剖し、発見し、調査し、学び、重視し、認知し、却下し、確認することです。
 分析によって、作家の偉大な財宝から、創造的な刺激を得ることが出来ます。俳優は、創造的な刺激によって創造的な反応が自然に起こります。それが、本物の沸き上がる感情となり、作品に光を与えます。

英訳本では三冊に分割されています。
「An Actor Prepares」
「Building a Character」
「Creating a Role」
日本の「俳優修業」は、「第一部」が「An Actor Prepares」を、「第二部」が「Building a Character」を翻訳したものです。

実際には「Creating a Role」は「俳優修業」という和訳が当てはまりません。実戦的なもので、俳優訓練ではないからです。「俳優創造」といったほうが適切でしょう。

日本では翻訳されなかった「俳優修業−第三部−」

スタニスラフスキー晩年の、演技演出理論の集大成。「Creating a Role」

スタニスラフスキーの表現が、更に訳を難解にさせているのですがトライしてみたいと思います。
「Creating a Role」でのスタニスラフスキーの頭の中は単純に言葉で表現できないくらい複雑で深遠になっているため、わかりやすく書こうとはしていますが難しくなってしまいます。

著書の中での重要な記述や、まとめている箇所を抜き出しており、全体の解説ではありません。

作品そのもののストーリーやキャラクターに対して興味や関心や同情があるでしょう。また演技に対してもイマジネーションや意欲を引き起こすものが見つかるはずです。そういったものを引っくるめて、「芸術への情熱・熱意」と書いているようです。
「創造的な刺激」というのも、色々引っくるめていますが、「このときのイリーナの感情がすごくわかる」というのや、「このシーンを猛々しく演じてみたい」という風に、創造心を駆り立てるものだと見てよいでしょう。
ここでの「夢」は、単に眠っているときの夢というよりも、夢のように誰にでも自然につくることができる、形なく自由な想像と捉えるのがよさそうです。
マイケル・チェーホフも「夢」のことを語っています。
Magic If」をどのように使っていたかがよくわかります。スタニスラフスキーは、役の準備を徹底的に行い、役と同化したのち、役の感情に語りかけて、行動を導き出しています。決して、「自分だったらどうするだろうか?」という単純な質問と答えではないことがわかります。
私は、「I DO」「I WANT」という実戦的なシステムを舞台稽古に導入しています。これによって、行動と感情が非常に細かく細分化されます。もちろん、この細分化は、有機的な流れと結びつきに変わります。
psycho-physical(サイコ・フィジカル)は、頭(感情・精神)と身体(行動)が有機的にリンクしている状態のことで、俳優の究極の理想形といってもよいでしょう。

私も魂レベルのでの因果か、スピリチュアリティや無意識、超意識に関心高く、多くを学んで来ましたが、今ここでスタニスラフスキーがこうしたことを深く考えていたという事実に驚きと共に、深い共感を感じます。

超意識や魂といえる源の本質へアクセスするには、我々が意識している領域を超えていかなければいけません。

これは人間の深遠なる神性の部分にまでアクセスすることだといえます。

この時代に、精神世界を探求し、演技において、ここまでのことを考えたスタニスラフスキーは驚嘆するほかありません。

ここからはPART2です。「Shakespeare's Othello」スタニスラフスキーは1930-33年の間に「オセロー」に基づく演技の研究をここに残しました。

「An Actor Prepares」「Building a Character」のようにトルツォフとコスチャの演劇学校風景で書かれています。

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