2.The Period of Emotional Experience
第一章の「The Period of Study」でのワークは、ほんの準備に過ぎません。この章は「創造」です。植物が育つのと同じように劇作家の種は俳優の魂の中に芽づき、根を出すのです。
準備のピリオドで、与えられた環境を生み出すことが出来たら、次のピリオドでは本物の感情、役の芯、役の内面のイメージ、魂からの生活・人生を生み出すのです。この役の感情経験はベースであり、創造の中でも最も重要な要素です。
INNER IMPULSE AND INNER ACTION
スタニスラフスキーは、第一章での実験や準備の末、「知恵の悲しみ」のファムソフを自分自身に感じることが出来るし、感情や欲望、目的への衝動を感じることが出来るようになりました。
衝動は行動を引き起こします。但し、衝動だけでは行動になりません。衝動は内側から来る欲求や充たされない欲望で、行動はそれらを充たす内的・外的なものです。衝動は内的行動を導き、内的行動は外的行動を導きます。スタニスラフスキーは、目的を遂行する手段を探しはじめ、ファムソフの置かれた状況から様々な考えられる行動を創造したのです。但し、役に非常に接近している状態でありながら、ファムソフが怒れば自分は冷静にし、ファムソフが冷めてきたら、自分は感情をけしかけ、怒らせようとしたりしました。そうすることで、全ての微細な内面の調整が出来上がりました。
「もしソフィアの状況だったら、どうするだろう?」とイマジネーションが感情に尋ねます。そうするとためらうことなく、「天使のような笑顔を浮かべるだろう」。「それで?」「かたくなに沈黙を保つだろう」……そう、感情が答えます。 このように、イマジネーションと感情を使って、「Magic If」を行い、更に「それで?」と質問を深めることで、確かな真実の行動を見つけています。スタニスラフスキーのイマジネーションは劇世界を様々な角度で深く広く見ていきます。まるで劇作家として世界に入っているように、思考の中でキャラクターたちが動いています。
「ライフ・イズ・アクション」。人生・生活は行動なくして成り立ちません。そして行動は、歩く・腕を動かすなどの動きのほかに、インナー・ムーヴメントと衝動があるということを覚えておきましょう。従って、アクションにはこの2つがありますが、マイムにはないのです。それがマイムとアクションの違いです。内的な、身体化するわけではない、魂からの行動(spiritual activity)。そしてこれは、ある目的の遂行に向かって、欲望と衝動が合成されたものであるのです。
衝動もなく、正当化されてもおらず、内側から生じてくるものもない舞台上の演技というのは、単に目と耳を楽しませるものに過ぎず、心には響いてこないのです。 受け身の、何も動かず、感情に溺れているという演技を好む人もいますが、これはクリエイティブではなく、自分の中だけに留まったものとなり、観客の心まで届きません。
人生・生活は、衝動や欲求の連続で、絶えず行動を繰り広げているのです。
ただ、一つ注意しておきますと、これらの衝動や欲求は、戯曲の上で書かれているという借りものではなく、クリエイティブな芸術家としての俳優本人から出てくるものです。俳優本人が役の生活を経験するのです。
CREATIVE OBJECTIVE
いったいどうすれば創造的な意志の感情がわき上がってくるのでしょうか? 創造的な感情は命令や無理強いしたところで沸き上がってはきません。上手く誘導してあげる必要があるのです。これには、創造的目的(creative objective)が有効です。
目的は創造性を磨きます。目的は感情を誘発します。また目的は、生きたキャラクターの脈となります。
舞台上の人生・生活は、現実の人生・生活と同じく、目的と達成の繰り返しによって成り立っています。また目的は音楽でいう音符ともいえます。音符がメロディーを導き出すように、俳優は感情を導き出すのです。
舞台での意識した目的は、ドライで魅力がなく、生きた感情に乏しいものです。そのキャラクターを生きているのではなく、筋をなぞってしまってはいけません。しかし、生きた感情や意志を導き出すための道具としては有効です。理想的な創造的目的は、無意識です。内側から瞬時に沸いて出てくる、直観からの動機です。
感情や意志、精神を直観的に導き出すコントロール力は、俳優としての高度な能力です。それには目的を本物のものと信じていないければ、感情も信じられません。その技術の一つが感情の記憶でしょう。
意識的―無意識的 →目的← 内的―外的 魂―身体
スタニスラフスキーは、例えば部屋に入るというアクションでさえも、一つの動きとして単純に入るということができませんでした。というのも、真実性を保つためには、そこに、廊下を歩き、ドアをノックし、ドアノブを回し、ドアを開け、入り、挨拶をするという細かい動きを意識していないといけないのです。身体的な目的は習慣的で機械的な動きでありますが、同様に心理的な目的にも無限の細かい必然性があります。
それらの身体的・心理的な目的は、連続した有機的な結びつきがあり、人間の習慣や生活が大いに投影されています。心と身体は表裏一体で、結びついており、その流れには連続性と論理性があるのです。
全ての細分化された身体的目的と心理的目的を、キャラクターの気持ちと性格にマッチした形で、舞台上で精密に成し遂げるのは容易ではありません。困ったことに、俳優は、キャラクターやその心情を表現するのに、台詞に頼ってしまうのです。台詞に頼り、台詞の順番に沿って演技する状態では、心理的・身体的目的の論理的な結びつきは壊れており、そのキャラクターの人生・生活は崩壊しています。クリエイティブな目的や感情でなくては、俳優はありがちな演劇的な紋切り型演技になってしまいがちです。
THE SCORE OF A ROLE
ここでスタニスラフスキーは、「知恵の悲しみ」での一場面を切り出して、どのような身体的・心理的目的をたどっていくかを書いています。それはインナー・モノローグといっていいものです。インナー・モノローグは口に出す言葉ではなく、頭で考えている言葉です。
例えば、「彼に挨拶をしなければならない。誠実な振る舞いで挨拶を交わさなければならない」「私はソフィアについて尋ねなければならない。彼女はどこにいるのだろう? 元気だろうか? 起きているだろうか?」「私は素早く最終目的に到達したい、すなわちソフィアに会うことだ。子供時代からの愛しい友人、妹みたいなものだ」
などと、連続した行動とシーン展開によって、その場に沿った内部の感情や目的を端的に書いています。
このシーンにおいて、彼は「長い間夢見ていたかのごとく、ソフィアと会うために急ぎたい」という大きな目的をおいていました。そしてその目的が達成されると、また次の大きな目的が出てきます。
みなさんはスーパーオブジェクティブ(超目標)という言葉を聞いたことがあるでしょうが、別に一作品を貫通する大きな目的だけをスタニスラフスキーが述べていたのではなく、実際には小がたくさんあつまって、中となり、中がいくつか構成されて大となるように、細分化しながら常に目的というものを捉えています。
これらの目的の構成を作ることに慣れることです。
THE INNER TONE
ここまで述べてきた、Magic Ifや目的で、俳優の創造における必要性を全て満たせるでしょうか? スタニスラフスキーは、ここまでの章でかなり詳細で奥深い方法を紹介してきましたが、そう問いかけます。まだ足りないと感じるときがあるのです。
選択された目的は、外的なものであり、その影響は表面的に過ぎなかったりします。時折、自身の内面に深く触れる場合はありますが。これらの、いってみれば楽譜は、方法や道筋を示すことはできますが、真の創造性を引き出してくれるわけではありません。人生・生活を生み出すことは出来ず、すぐに命をなくしてしまいます。
それ故に、次の目指すところは、絶えず自分自身に働きかける目的の発見であり、人生・生活が身体面(行動面)の楽譜となるようなものです。
創造的な目的は、単に興味を呼び起こすだけでなく、パッションや興奮や欲望や熱望、そして行動を呼び起こすに違いありません。
内面の充足、感情、心理的な動機があることで、大きな目的も小さな目的も機能します。それらがなければ、心のない役になるでしょうし、目的も空虚なものになるでしょう。
新しい内面の状態が、目的をリフレッシュさせたり、色づけたりし、また深い意味や新しいベースや、内的動機を添加したりする。この変化をもたらす内面の状態や気持ちをインナー・トーン(inner tone)と呼びます。気持ちの芽生えと呼んでもいいでしょう。
楽譜が同じでも、目的が同じでも、感情は色々と変化し、一定ではないでしょう。深い部分で、新しい目的を付け足すとどうなるか、スタニスラフスキーは実践してみました。これは、同じ楽譜を違うキーで演奏するというようなものです。その結果、深い部分で色合いが変わり、完全に違う印象となり、より内面が充実しました。
人は、熱情(passion)に駆られているとき、彼の全てはその中にあり、身体的な目的など忘れてしまっていますし、投げ出してしまっています。実際の生活では、我々は何かをしていることに対して(歩いている、ベルを鳴らす、ドアを開ける、会釈する等)特に意識していません。日常の動作は、ほとんどが無意識に行われています。身体の中に習慣が組み込まれており、魂の中には深い心理が組み込まれています。
身体(body)と魂(soul)の結びつき……「psycho-physical」と呼んでもいいでしょう。
例えば、愛の熱情だとして、その熱情を役者はどう引き出せばいいのでしょうか? 準備が必要でしょうし、熱情そのものを知っていないといけないでしょう。熱情を引き出しやすい手段を考えるとしても、意識的と無意識的双方の、とても不可解で複雑なパターンとなりそうです。芸術は科学ではありませんが、科学的な見地から見た愛の知識も必要かもしれません。スタニスラフスキーは混乱しそうになりましたが、脳ミソではなく心の中に愛というものを感じることが第一だと思いました。
スタニスラフスキーはこのように感じました。それは植物のように、種から芽を出し、根を張り、茎が伸び、花が開くという一連のプロセスです。これはどんな熱情にも当てはまります。あくまで自然に。
全ての熱情は感情的に経験した複雑なものですし、異なる感情や経験、状態が様々に組み合わさったもの。しかもしばしば矛盾をはらんでいます。これは、絵の具のようなものかもしれません。一般的なトーンが赤、青、黄、白、黒だとして、個々や状況等を混ぜ合わせることによって、紫や薄い青、黄緑などに変化します。赤の愛もあれば、青とグレーが混じったような愛もあるでしょう。
また、熱情そのもののみを考えるのではなく、相対する感情についても探さなければいけません。パレットには様々な色があり、人間の熱情は色とりどりに表現されます。善良な人間を演じるのであれば、悪の部分を、知的な人間であれば精神的に弱い部分を、陽気な人間であれば真面目な部分を、というように。事実、一つの役柄を取ってみても、芝居の進行によって熱情は様々に変化します。
嫉妬の感情で嫉妬を表現する、悲しみで悲しみを表現する、悪人は全てが悪……という表現では一般的な表現にしかなりません。相反する要素を考えるべきです。人間の熱情の複雑な表現を目指すべきです。
人間の熱情そのものをよく知り、人間の奥深い心理を熟知すれば、より複雑で詳細で変化に富む表現が可能になります。
このアプローチのためには、戯曲に書かれたそのキャラクターをよく分析しなければならないし、分析するには、細かくも大きくも見ることが必要ですし、目的も把握していないといけません。トーンが多彩で深まれば、より役の芯に近づけるはずです。また、楽譜に内的にも外的にも状況の変化を加えることで、無限の可能性を生み、より深く多彩な役作りができます。
THE SUPER OBJECTIVE AND THROUGH ACTION
役の最も深い内部、核、あらゆる目的の集約……それがスーパーオブジェクティブ(超目標)(Super Objective) です。全てのオブジェクティブの集まりであり、ゴールであり、役の全場面での集中です。そのスーパーオブジェクティブというのは、超意識的な言葉には言い表せない、その役のスピリットそのものかもしれません。
作品のスーパーオブジェクティブを考えると、
「カラマーゾフの兄弟」のスーパーオブジェクティブは、作者の神と悪魔に対する探求であり、「ハムレット」の場合は存在すること(生きること)の意味であり、「三人姉妹」は、よりよい生活への憧憬でした。これらの場合「テーマ」といっていいかと思いますが、スタニスラフスキーは作者の魂や作品の根幹に流れるものを感じ取っていました。
極めて稀な天才芸術家のみが、スーパーオブジェクティブの感情的体験、作品の魂との融合、作家との統合が可能です。
強大なオブジェクティブは、感情や概念、深さ、魂からの洞察、生きる力といったものを内包します。一つのスーパーオブジェクティブは、俳優の魂の核に根付いて、枝葉のように無数の小さなオブジェクティブを生み出します。
スーパーオブジェクティブは、行動の流れ(Through Action)を創り出します。スーパーオブジェクティブと行動の流れは、創造的な目的と創造的な行動であり、役の中の、全ての細かい分離した目的や行動や単位を内包します。スーパーオブジェクティブは作品の髄です。全ての作品、全ての役に、人生・生活を成す行動の流れとスーパーオブジェクティブが隠れているのです。行動の流れは、自然な熱情、宗教、社会、政治、芸術、善悪など、その人間の全てを反映して形作られます。
スタニスラフスキーはかつてゴーリキーの「どん底」の最終幕で、表面的な動機に過ぎない酒に酔った浮かれ騒ぎを演じて失敗したといいます。昔は形式的で機械的な行動が癖になっていて、18年間もこの作品で同じ過ちを繰り返していたといいます。そして後になって、新しい刺激や新しいアプローチを試すようになったのです。ただの浮かれ騒ぎを演じるのではなく、役の気持ちや状況、他の人物との関係性などを模索することで、実は酔ってはいないということに気づき、新しい演技になったといいます。
スーパーオブジェクティブという大きな願望があれば、行動の衝動となり、そして達成へのプロセスを創り出します。そして、人生には困難や障害や葛藤がつきもののように、行動の流れの中にはそれらは生まれます。決して簡単に目的が達成されるわけではありません。従って、ある役のスーパーオブジェクティブと対立するカウンター・スーパーオブジェクティブもありますし、行動の流れと対立するカウンター・スルーアクションも存在します。これが劇的さを生むのです。
創造的な目的があってこそ、俳優は役を生きることが出来ます。スーパーオブジェクティブや、創造的な意思、生きた感覚がなければ、陳腐で機械的な演技に取って代わってしまいます。
THE SUPERCONSCIOUS
意識を超えた領域である、直観や無意識の領域は、理性ではなく感覚、そして思考ではなく創造的な感情によってアクセス可能です。スタニスラフスキーは、理性や思考による意識的な演技のみでなく、そのレベルを超えた超意識や潜在意識にまで関心が及んでいました。だからこそ、彼は魂からの人生・生活を舞台に乗せようとしていたのです。
この領域に到達するためには、磨かれていない俳優では駄目です。芸術家の魂を持つ者でなくては到達できません。
あいにく、無意識の領域は無視される傾向にあり、ほとんどの俳優は表面的なレベルに制限されています。観客も表面的な表現で満足しています。しかし、芸術の本質、創造性の源泉は、人の魂の深くに隠されているのです。
スピリチュアルな存在としての内奥に、通常意識を超えた超意識の領域に、神秘的な「私」という存在、インスピレーションそのものに。
どうすればそのような領域に到達できるのでしょうか? これは人間としての生まれ持った資質・性質となるでしょう。生まれてから身につけたものではなく、人間が持っている内奥の源次第であり、いってみれば世界の中で創造する生命の性質です。
感情が微細になればなるほど、超意識に近づきます。源の本質に近づけば近づくほど、通常意識から遠く離れていきます。
精神の庇護から離れ、決まり切った法則や偏見から免れると、源の本質は力となります。無意識へのアプローチは意識を通して行われ、現実離れした超意識へのアプローチは、現実または超自然(純粋なる創造的人生・生活)を通して行われます。
インドの行者のように、無意識や超意識の領域から奇跡を行う人であれば、実践的なアドバイスができるかもしれません。彼らは意識から無意識へ、身体からスピリチュアルへ、現実から非現実へ、自然主義から抽象へとアプローチしたのです。
彼らのように、俳優もまた「一握りの思考を持って、無意識の袋へと投じる」方法を学ばなければ、自らの超意識とのある種の交流を築くことはできないでしょう。一朝一夕では成し遂げられないことです。袋に入れ続けることを繰り返し、いつか丸ごと手にできる日まで、忍耐強く修行をしていかなくてはならないのでしょう。
俳優は、袋に入れ続けるために、勉強し、本を読み、観察し、旅をし、社会的・宗教的・政治的・あらゆる人生を知る必要があるのです。
種を植え、辛抱強く育つのを待たなくてはなりません。
インスピレーションは、俳優がなにをしようが勝手に生まれるものと信じる人がいます。しかし、インスピレーションというのは、駄々っ子のようなもので、現れたかと思えば、すぐに意識の奥に隠れたりします。
超意識やインスピレーションについて考える俳優は、他のなにものでも満足できないくらいの確固たる意志で、適切な内面の状態を築けるよう自分自身を気にかけておかなくてはなりません。そうすれば、その人にとって第二の天性となることでしょう。
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