解答ありがとうございます。
ガラスの仮面自体が大変な人気作ということもありますし、それらの反論に対する処置は既に組み込まれているような気がするのです。
例えばですが、「憑依型」に対する批判などは主人公北島マヤに対しては当てはまるかもしれませんが、その師である月影千草には当てはまらないように思うのです。 また、ライバルである姫川亜弓にも当てはまりません。ライバルを評価する一方で、彼女は自分の方法論を曲げていないのです。
>役に入ろうという意識ばかりでは、普通の俳優さんはろくな演技になりません。やはり技術力が伴わなければ粗が目立って、ひとりよがりの感情の垂れ流しとなってしまいます。
この部分に対しても非常にスムーズに受け入れられるのです。なぜかといいますと、北島マヤの欠点としていくつも指摘されているからなのです。 前半で舞台あらしとあだ名され、その後「石の微笑」という劇中劇の中で人形役を演じながら、自ら欠点に気が付くシーンが用意されています。 中盤から後半では、ライバルとの表現能力の差、特に観客を意識していないなりきりを批判するシーンまであります。
若い人や素人の考えからみた場合に主人公が正しく見えること、主人公の真似をしようとすることをこそ、いわめなければならないとは承知しています。
その一点をもってこの作品の評価とするのは、少々いたたまれません。 また、考えるきっかけとしてみたときに、とてもいい題材ではないかと思ったのです。
原作通りに演じることがいいのか、新解釈で演じることがいいのか 限界はどこにあるのか?演技者の演技に限界があるのか、役柄に規定されるものなのか? 役者における天才性とは何か?優秀性とは何か? 存在感とは何か?魅力とは何か? 神や、仙人、世界最強の人間を演じることとはどういうことか?
実践的な感覚を学ぶのは、現場に触れるべきだと思っておりますが、 少しズルをして意見を伺おうと思った次第であります。 失礼いたしました。 |